わたしは耳が聞こえませんので、筆談か身振りでお願いします

ぼくが働いている会社が主催する大きなイベントがあって、会場へ誘導する仕事を手伝った。チケット売り場の前だったから、イベントに来場するたくさんの人に呼びかけられて、さまざまなことを聞かれた。そのなかで、たぶん、生まれて初めて、耳が聞こえない人に話しかけられた。 その女性は、まず開口一番に「わたしは耳が聞こえませんので、筆談か身振りでお願いします」と早口で言ってから、そのあとに障害者手帳はどこで見せたらよいのか、という質問をした。ぼくは、手帳を取り出して見せるジェスチャーをしながら、会場の入口で見せれば入れますよ、と結局は言葉を発しながら答えてしまったのだけど、それでわかってくれたようで、笑顔でありがとうと言って入口へ歩いていった。 それから、その女性が立ち去ったあとも、何度もこのやりとりを思い出した。あの女性は、たぶんこれまでに数え切れないくらいコミュニケーションが困難な場面に遭遇してきた経験から、初めに伝えたほうがよい情報をまとめていて、それがあの冒頭の「わたしは耳が聞こえませんので、筆談か身振りでお願いします」だったのではないか。この言葉は、初対面の人と会話をはじめるときに話されることがなんども繰り返されて、この形へどんどん最適化されていったのだ。